後編
誰よりも体力がなく根性もなかった14歳のワタシ。
やっとの思いで七合目を超えた時。
新たな敵との戦いが待っていたのでした。
当時14歳の私にあるものが襲いかかってきました。
睡魔です。(10年後に不眠症になるとは思わんよなぁ)
この時、左側は崖。傾斜角は70度くらい。うっかり転んだら滑落です。
そして右側は石垣になっていたのですが…
副会長、ここで今のところ人生最初で最後の幻覚を見ます。
この石垣にずらっと人が足を投げ出して座っているのです。
と、当然ですが左に寄ります。と、崖です。
慌てて右に寄ると座っている人にぶつかりそうになる。
8合目が近いこともあり、酸素も少しずつ薄くなっていることもあって朦朧としながら歩いていたのですが、
言うまでもなくこの石垣に座っている人の行列というのは幻覚でした。
冷静に考えれば分かることですが冷静じゃないので分からない。
しかもよく思い出すと正確には座っていたというより腰から下だけだったという微妙な怪奇現象だったというオマケつき。
うぅむ、ある意味で貴重ですね。はい。
結局、御来光は8合目の手前で拝むことができました。
この牛歩というか鈍足のおかげで御来光ラッシュに巻き込まれずに済んだというのは良い誤算になりました。
日が昇って気づいたのですが頂上から8合目まで人がぎっしりと並んでいて渋滞していたからです。
あちこちの山に登りましたがあんなに人がいた登山道はありません。
ちょっと異様でしたね。
世界遺産となった今だともっとエライことになってるんでしょうねぇ…
こうして8合目の山小屋で待機していた仲間と数時間ぶりに合流して一息ついていると、
猛烈な睡魔に襲われてきました。
ここでまたも不思議な現象。
どうも夢を見ているのですが、その内容が目の前の風景と全く同じなんです。
もちろん仲間もいます。
つまり寝ている実感はないのですが実際は寝ているという。
そして班長の「出発するぞ」に対して私は返事をしているのですが、何度も聞かれだんだんイライラしながら返事をしていたら肩を揺すられて「起きろ!」と。
どうも聞こえていた声は実際に班長が発していた声。
返事をしていたのは夢の中だったようです。恐るべし酸欠と睡魔(大げさだなぁ)
この8合目で下山した仲間もいたのですが、ここまで登っておいて頂上に到達しないのはもったいない。屏風ヶ浦に来てシャロームに寄らないようなものです。
こうして私は睡魔を振り切り残り僅かな登山道を歩み始めました。
そして牛歩鈍足のおかげで高山病になることもなく私は無事に登頂を果たしました。
朝の7時くらいだったと思います。
頂上からの眺めは壮観でした。樹海とはよく行ったもので上から見るとまさに緑の海。
たまにハゲてるところはゴルフ場くらいで見渡す限り眼下は緑でした。
当時、最もヘタレだった私ですが生まれて初めて達成感というものを味わいました。
公衆電話があったのでついオカンに電話してしまったくらいです。
頂上で飲んだコーンポタージュの味はポール・ボギューズさんでも再現できない、というより人生で最も美味しいコーンポタージュでした(ポッカの缶ですが)
下山は打って変わって楽勝だったので省きますが、高山病になった親友は大量のハチに襲われるという幻覚を見たそうです…。
私はこれ以降、富士山を見ると誇らしい気持ちが湧いてきます。
特に精神障害になってからはよく励まされます。
『あの時、あの場所に立ったんだ。またあの時みたいに牛歩鈍足でも大丈夫。いつかは頂上で光を拝める』
そう思えるようになりました。
そして富士山も同じように励ましてくれているような気になるんです。
『大丈夫。まだやれるよ。』と。
リカバリーという概念を知り、時に苦しい…いや苦しいことのほうが多いんですが、
何かこう、富士山を見ると頑張れるというか頑張ろうと思えるようになりました。
朝は元気で行ってこいと。
夕方はお疲れさんと。
勝手に富士山から元気をもらっています。
あの時、あの頂に立てたことは決して無駄じゃなかったと心から思います。
だから今もより良い明日があると信じて人生という長ーい道のりを歩いていけるんだと思います。
それでは久しぶりにいつもの如く長々と書いてしまいましたが、
お読みいただきありがとうございました。
あぁ、ちなみに書き記しておきますが、もう二度と富士登山する気はないですよ。
せいぜい高尾山くらいでいいや。もちろんケーブルカーでね!
見た目とは裏腹に神奈川県の主要な山を制している副会長がお届けしました。
チャオ!
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